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清水寺は大同2年(807)坂上田村麻呂が戦で効験のあった十一面観音像を祀ったことが始まりとされており、京都の清水寺、兵庫県社町の清水寺とともに日本三大清水と称される名刹で、和賀・稗貫・紫波の当国三十三所観音巡礼の一番札所として賑わいました。
また、前九年・後三年の両役のとき、源頼義および義家は本寺に立願し、ついに強敵を撃破することが出来たので康平5年(1062)七間四面の伽藍末社を建立したといいます。
代々本寺に祀られてきた懸仏薬師如来坐 像は作風に鎌倉期の様式があり、市の文化財に指定されています。 |
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花巻市の東郊外、標高176mの胡四王山中に立つ神社。拝殿に刻まれた彫刻の見事さは必見。1月2日の蘇民祭はこちらで行われます。
胡四王神社は、大同2年(807)、坂上田村麻呂が自分の兜に納めていた薬師如来を安置し、武運と万民の息災を祈願したのが始まりといわれ、中世期の稗貫氏、江戸期の南部氏に篤く庇護された格式の高い神社です。
入母屋造の拝殿、一間社流れ造の本殿は、多くの均整のとれた彫刻があるのが特徴で、ともに建築当時の名工の手によって造られた貴重な文化財です。
1月2日にこちらで行われる胡四王蘇民祭は、花巻地方に流行した原因不明の疫病退散と合わせ国家安穏、五穀豊穣、村中安全を祈願して慶応年間から始められた郷土の伝統行事です。
また奉納される胡四王神楽はその起源を康保年中(964−968)まで遡り、神社には慶長三年 につくられたとされる古い獅子頭も伝えられていて、歴史の深さを物語ります。 |
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市役所南東にある時鐘は、かつて花巻城二の丸の一角(通称四角山)にありました。
青銅製で高さ95cm、口径78cmと小型の梵鐘です。この鐘は正保3年(1646)南部重直公の時代に、南部藩御釜師鈴木忠兵衛(初代)・忠左衛門(二代目)によって盛岡城時鐘として鋳造されましたが、
延宝7年(1679)に、小型であるため鐘声が城下に響かないとの理由から、新たに鐘が造られることになり花巻城に移されました。
鐘の中央部分には鋳造のいきさつを記した銘文があり、歴史資料としても貴重な文化遺産となっています。 |
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昭和49年、かつて羅須地人協会があった桜町地内の雨ニモマケズ詩碑入り口に、賢治の資料と、高村光太郎、萬鉄五郎の作品を展示して、「佐藤郷志館」として開館しました。
その後、高村光太郎賞を受賞した船越保武氏などの作品を展示、平成6年4月に「桜地人館」と改称、賢治ゆかりの地を訪ねる観光客を楽しませています。 |
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阿弥陀如来は平安時代以来、末法思想の流布に伴い極楽住生を願う人々の信仰を集めてきました。
勝行院(しょうぎょういん)は江戸時代、西念という僧が同地に念仏庵をひらいたことが始まりとされ、元禄年間(1688〜1704)に商人の清水甚兵衛、佐兵衛父子の発願により京都より阿弥陀三尊像が請されました。
この阿弥陀如来像は鎌倉時代の様式的な特徴をとらえた安定感のある像容で、円満な相好(顔立)の中にも屹然とした緊張感が漂い、
躰躯にまとう衣の表現にも藤原様式の流麗さを受け継ぎながら、より写実的な技巧を認めることができます。
県内において京の都でつくられた仏教美術の精華を拝することができる貴重な文化財です。 |
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向御組町(現在の桜町)同心の始まりは、天正19年(1591)、豊臣秀吉による九戸政実攻略後、浅野長政配下の一隊が当地において、南部氏に仕え花巻同心組となったことに由来します。
当初花巻城の東、馬場口 御門下に居住していましたが、延宝8年(1680)に向御組町に移されました。
同心屋敷は奥州街道を挟んだ距離にして100間(約180m)の間に、東西15軒ずつ30軒が配されました。
昭和54年に市が買い取り、桜町の宮沢賢治詩碑入口まえに移築復元した2軒の同心屋敷は、いずれも江戸時代末期に建てられたもので、間口5間、奥行き3間の基本的な本屋部分に曲家等を増築し
た建築構造となっています。
旧平野家はL字型、旧今川家はコの字型な簡素な建物ですが、同心屋敷の典型的な遺構として貴重な文化財です。 |
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