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熊堂古墳群は8世紀律令政府の下、この地方を支配した「蝦夷」とよばれた人たちの墓と見られるもので、古くは「蝦夷塚」あるいは「四十八塚」と呼ばれていました。
川原石を積んだ石室を持つ小山状の墳丘は、直径約10m、高さ約1.5m、周隍をめぐらした円墳で郡集墳を形成しており、熊野神社の境内だけでも11基の古墳が確認されています。
遺跡からは、色あざやかな玉類(匂玉、碧玉、管玉、切子玉、小玉)権力を象徴する刀剣類(蕨手刀、直刀)や?帯金具(ベルトの留金)、銀環、金銅製金具、和銅開珎、土器(土師器、須恵器)等多数の
副葬品が出土しており、住時の高度な技術力を伴った生活様式を伺い知ることができる貴重な資料となっています。 |
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花巻開町を記念して市が平成4年度から着手し6年度に完成しました。
木造2階建てで「枡形脇戸櫓門(ますがたわきどやぐらもん)」と呼ばれる形式を採用した、勇壮な御門となっています。 |
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「昔の人と仕事と暮らし」をテーマに藩政時代から昭和初期までの生活民具、工芸品を展示しています。
展示は「農村の仕事と暮らし」、「山村の仕事」、「町人の仕事」の3つのブロックに分かれています。花巻の歴史や文化を知る格好の施設。 |
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円城寺門は、もと和賀氏の居城であった飛勢城(現在北上市二子町)の追手門でしたが、慶長19年(1614)、花巻城主南部政直が藩主利直の命により花巻城築城整備を行った際、三の丸搦手の円城寺坂(円城寺門はこれに因んだ)に移築されました。
構造は城門形式、二階建ての櫓門で、高さ6m、桁行(幅)6m、梁間(奥行)は一階部分で2.9m、二階部分で3.9mの大きさです。8本の欅製脚柱からなり、正面に扉と板壁がつきます。
二階部分は白壁塗り、正面の格狭間には板庇を付け、その左右に円形、短冊形の矢狭間を空けています。
屋根は切妻造りの素朴な栗木羽(くりこば)葺(現在は銅板葺)となっています。
花巻城住時の威容をつたえる唯一の現存建造物として貴重な文化財となっています。 |
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「願わくはわれ太平洋の橋とならん」の信念と5000円札の肖像として有名な新渡戸稲造。
彼の先祖は1598年(慶長3)から約220年間、花巻の地に居住し花巻城士の文武両道にわたる指導、新田開発に努めてきました。
十和田市の生みの親といわれる新渡戸傳は1793年(寛政5)に花巻で生まれ、十和田三本木平の開発に尽力しました。
花巻新渡戸記念館はこれら新渡戸家の功績とゆかりの品を展示した記念館です。 |
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高村光太郎が戦火を逃れ、知人であった宮沢賢治を頼り東京から疎開して生活を送ったのが高村山荘です。
山荘は現在套屋(とうおく)によって保護されています。高村記念館はこの山荘から約150m離れた木立の中に立ち、十和田湖にある「裸婦像」の原型、「大地麗」の書、妻智恵子の切り絵などが展示されています。 |
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