|
花巻における古代の文化の流入元であった西南地区に開設された、竪穴住居、高床倉庫などを備える古代生活の体験施設です。
火起し、古代染め、弓づくり、繩づくり、はしづくりといった創る作業、藤つる遊び、肝だめし、木登り、火の祭り、水遊びといった遊び、古代食づくり、古代おやつづくりといった食事作りが体験できます。 |
TOP |
|
|
熊谷家は屋号を「酢屋」といい、幕末以来製酢業を営んできました。当時は矢沢村の肝入を勤めており、南部藩家老楢山佐渡の家士にもなっています。
熊谷家本屋は江戸時代末期(天保年間か)に造られた桁行9.5間、梁間6間、寄棟造りの萱葺の直家です。
東向きの入り口を入るとニワ(土間)があり、奥にヒビト(炉)が切られたダイドコロと水屋、左手にはマヤ(馬屋)があります。右手には3系列8室からなる大小の部屋があります。
付属屋 5棟(土蔵2棟、便所、小屋、屋敷神)も本屋とほぼ同時期の建築と見られていますが、かつて本屋正面にはさらに3棟の酢・醤油蔵がありました。
熊谷家は当時の生活様式とともに、南部藩領南辺地域の大型民家がもつ屋敷景観のすべてを今に伝える貴重な文化財です。 |
TOP |
|
|
宮沢賢治は1926年3月に花巻農学校を退職し、4月には宮沢家の別宅のあったこの場所に移り、独居自炊で農耕生活をはじめ、「羅須地人協会」を開設して農民に化学・土壌等の講義をした。
1936年11月に「雨ニモマケズ」の後半部が刻まれた詩碑がある。
また、この詩碑は高村光太郎の書によるものである。 |
TOP |
|
|
宮沢賢治が手帳に「経を埋めるべき山」と記述していたことから、賢治にとって最もゆかりの深い山の一つである同地に賢治記念館やイーハトーブ館が建てられています。
賢治は胡四王歌にを詠んだほか、文語詩未定稿「丘」でも胡四王山をとりあげています。
|
TOP |
|
|
高村記念館に隣接。光太郎が花巻で7年間を過ごした家屋で、外観は施設を保存するため覆われているが、内部は光太郎が生活していた時のまま残っている。
|
TOP |
|
|
花巻空港北側に位置し、芸術家の創作活動を支援し、交流を通して地域の人々の文化意識を高めることを目的とした「青雲塾」をはじめ、子供たちの自由な発想と創造力を高める「次世代セミナー(自由教室)」を開催しています。
詳細については要問合せ。また、運営しているのは花巻文化村協議会で平成11年に岩手県で第1号となるNPO法人に認証されています。
|
|